第4章 足立ヨット造船の設立

ヨットとの出会い

私がヨットを始めたのは30年以上も前で、高校を卒業し大阪の大東市に地方公務員として就職した翌年からです。
当時は大阪万博の開催など、景気は最高の時でした。
本当は民間に勤めるつもりでしたが、担任の進めもあり、夜間大学に通いながらの道を選びました。
琵琶湖でヤマハの15Fに乗り、初めて経験したヨットで、その時に「ヨットは一生止めないな」と思いました。
なぜなら他のスポーツなどは限界が必ずあるからで、実際今はスキーやゴルフ、テニスもしなくなっています。
テニスだけは今もやりたいと思っていますが、なかなか時間がとれません。
2年ほどこのヤマハ15で遊びましたが、やはり自分のヨットが欲しくなり建造することとし、全く何も解らないまま、偶然本屋で見つけたスナイプの工作書を元に自設計自作をしました。
このディンギー(シビル号)は4.2mで自作に4年。 5年間琵琶湖へ通い、クルーザーを建造するときに、未練が残るのがいやで解体しました。
解体とは聞こえが良いですが、実際は頑丈でなかなか解体できずに、結局ユンボを使ってバラバラに解体。 未練無し。 理由はクルーザーの自作には最低5年。 でも10年はかかると思ったからで、このシビルが有るとついつい遊んでしまうと思ったからです。

常に進化するWOODYヨットの基礎

18歳で大東市に入り、勉強は大嫌いでしたから、働くことにわくわくしたものです。
夜は大学もあるし、それなりに多忙だろうぐらいの甘い考えは1月もしないうちに変わりました。
所属は下水道課。 配属されて1週間目から帰宅は午前様。
好景気と急激な人口増で下水道整備は衛星都市の急務でした。
そこへ翌1972年は大東市が全国でも有名になる、大東水害が7月と9月に発生。
典型的な都市災害で市域の6割が冠水。私の担当は浸水対策係のポンプ場管理と耕地。
両方ともが災害に最も関係し、殆ど家に帰れない状態が数ヶ月続き、特に山もある大東市には多くの水路やため池、田畑があり、全て耕地として国の災害救助法適用となりましたが、それまでほとんど災害も無かったため、だれも経験がありませんでした。
全て自分で勉強するしかなく、全くの手探りで何とか補助の認定を受けることが出来るという貴重な経験をさせて貰えました。
次ぎに下水道工事を担当し、その後設計と調査の下水道計画課への配属となりました。この計画係での10年間が常に新しい物に対して目を向ける基礎となったと思います。
新しい情報はどん欲に吸収し、当時誰も知らなかったアルカリ性骨材や砂の塩害なども早くから知っていました。
大阪で初の本採用となる硬質塩ビ管の採用や、FRP管材の日本で最初の国費事業をしたり、非破壊検査による地下埋探査の採用や、多くの工法、部材なども徹底して調査して「今ある物が完全ではない」と言うことを悟るのに大して時間は掛かりませんでした。
新たに開発や改良したものに変更していました。
民間業者に特許を取らせた物もかなりあったと思います。
「今ある物は最終ではなく、必ずもっと良い物や改良点はある」と常に考えていました。
早くから独学でベーシック言語で色々なプログラムを作ったり、設計のマニュアルを作ったりと、この下水道での20年間は貴重な経験として今も活きています。

造船所のプロになる布石

自作した30Fの東風-Ⅱ(シビル号を改名しています)がきっかけになったのですが、昔の造船所と違い私は昔風の職人ではありません。
その変わり何でも1人で出来なければいけないし、全ての知識が必要でした。
勿論専門家のいる、マストはマスト屋さん、セールはセール屋さんが作るので、このへんの深い知識はありません。
船体の建造は勿論。 艤装や操船も、そして営業もするのです。
公務員の時に養われた知識が今になって活きているのは、常に何にでも興味を示し、独学ですがそれなりに勉強をしたおかげで、今色々なところで活きています。
排水ポンプ場の動力はディーゼルエンジンと電動モーター。
電動モーターも大型になると自動制御のシーケンスプログラムが必要で、これも又偶然に建築課の係長が大阪に数人しかいないシーケンスプログラムを組める方で、大いに電気のことを勉強させていただきました。
作動は殆ど12Vの直流で、ヨットの正に電源です。
マンホールの蓋や足かけ金物は鋳鉄で、大型ポンプの胴体も鋳鉄。
ヨットのバラストも鋳鉄なのです。
FRPの施工はしませんが、当時FRPがまだ一般的でないときに栗本鉄鋼と久保田鉄鋼で色々と勉強させていただきました。
そして「作るときに維持の事を最優先で考える」と言う方法でないと、結局後々痛い目に遭うのです。 
殆どのヨットは維持や変更と修理のことは全くと言っていいぐらい考慮されていません。低価格化の問題は、「取りあえず5年もてば良いか」としか私には思えません。
WOODYヨットで基本的に私の「ハルに手の届かないところを作らない」のも、このメンテナンスの事を考えているからです。
FRPヨットには悪いですが、インナーハルには絶句してしまいます。

東風の自作

1980年(昭和55年)9月からクルーザーの建造を開始しました。
結局完成したのは10年と9ケ月後の1991年5月でした。
ディンギーを自作した時にはあまりヨットの知識は無かったのですが、10年近い年数は私の知識も豊富にしてくれていました。
常に乗ることの出来るクルーザーも有りましたし、深くはなかったですが操船も覚えていました。
舵誌にいつも出てくる横山晃氏の設計で造船することは早くから決めていました。
特にサバニ船形(沖縄の小型漁船)のクルーザーを求めたところ、新しいシリーズとしてサバニ船形の外洋クルージングクルーザーのシリーズがあり、当初は26Fぐらいのつもりでしたが、職場の仲間が何人か参加することが決まり、結局#425の30Fケッチに決めました。 30Fは船体の大きさで、実際の全長は前後のバウスプリットとバンブキンを入れると39Fにも成ります。
全ての造船の知識は横山晃氏筆の新ヨット工作法だけ。
すでにこの当時木造船はほとんど建造されて無く、どの造船所も今でも全く知りません。
ディンギーの時にはフェノール接着剤を使っていたのですが、エポキシの技術は初めてで、まずこの接着剤からトラブルが始まり、試行錯誤で完全に使えるようになるまで、1年掛かりました。
バラストは鉛バラストで、自分で木型を作り鋳込みましたが、やはり失敗。
でもこういった失敗が知識となり、2回目は無事に完成。
次々と色々な問題点が山ほど出てきました。
この新ヨット工作法で間違った指示や、図面の間違った部分も見つけることをいつしか出来るようになりました。
ディンギーの時に一緒に建造していた者もいつしか来なくなりましたが、横山晃氏がいつも一人が1番、次が2人と書かれていますので、全くこのことでは建造する意欲は落ちませんでした。 
子供も成長し、少年野球に入ったことにより、コーチや監督までも引き受けることとなり、日曜と祭日は自作時間には使えなかった為もあり、11年近くかかりましたが、それでもいつも作業をしていた訳ではなく、長い間作業場に行かない時もありました。
1990年(平成2年)12月東風を堺市の出島漁港にある日本OPヨットへ陸送、進水式。 翌1991年(平成3年)5月、無事東風-Ⅱは完成しました。

造船所設立への道

この東風-Ⅱの最後の仕上げを出島でしていた時に、テレビニュースの取材がありました。
早朝の6時半からの生放送でしたが、その中で「乗ることも目的として持っているが、他の人のヨットを作りたい」と言っているんです。
もうこの時に心が動いていたのかも知れません。
18歳で下水道課へ入庁し、組織は大きくなっていきましたが、20年間結局下水道畑一筋で実質移動がなかったのと一緒だったのですが、色々なアイデアと考えはさらに加速していました。 50年から80年はかかると言われている下水道整備を5年で作ってしまうアイデアなど、余りにも現状から先へ進みすぎる為、他の者が付いてこれていないと感じるようになりました。
21年目にして初めて他の部署である道路維持へ配転になり、ここでも1年少しでしたが、沢山改革をしたのを覚えています。
もっと自分の考えを活かせる場所は、もうこの役所には無いと感じ、退職を決意したときに、塩ビ管製造業者さんやコンサルタントなどからも何件かお誘いを受けたのですが、やはり次は自分の考えで全て出来る事。と言うことで当初は下水で培われた知識を生かしたコンサルタント業を考えました。 一人では出来ないので2人の仲間に声を掛けたのですが、一人は工事の方で独立することを決めていたらしく、又もう一人も決心が付かなかったようで、結局この話は流れました。
ただ足立ヨット造船を設立した2年間は、コンサルタントの技術顧問として席を置いていました。

東風-Ⅱの処女航海

完成した年の夏、和歌山新宮市の三輪崎へ処女航海に出かけました。
行きは5人でしたが、帰りは家内と二人だけの航海となり、1週間台風が九州の沖に留まっている状態の時に三輪崎まで行きました。
夜中に東風-Ⅱに着いたのですが、後ろからの降雨で差し板が全く膨張して外れない状態で、階段もかなり濡れていましたが、船内は全く湿気もなく、木造ヨットのすばらしさを痛感しました。
翌日の朝出航したのですが、視界は500mを切り、海と空の境目もなく、ロランC(ロラン局と言う電波で位置を出していた当時としては最先端の技術)も正常だったので、10時に出航。 あっという間に三輪崎港は見えなくなり「行くしかないな」と串本へ向かいました。
岸近くは不安なので、操船の基本通り沖出しで航行しましたが、色々な物が台風の影響で流れていて、360度海の壁か、山の頂点に居てるような感覚の繰り返しでしたが、順調に進んみました。 突然本船が目の前に現れるのです。 船体を大きく前後に揺れる貨物船は凄い迫力で、船底が見えたり、落ちたときには、あの高い操舵室に波が襲っていました。 その状態の操舵室から人が出てきて手を振ってくれるのです。
あちらから見た東風-Ⅱは木の葉以下だったのでしょう。
それも1艇だけではなく次々と遭遇する全ての本船が同じように手を振ってくれます。
「あー悪いなー」と思いつつ、大丈夫の合図をその度に送り返しました。
海の仲間って素晴らしいな!とつくづく感じました。
しかし実体は何もコクピットでしていなかったのです。
オートパイロット任せで、余りにも何もすることのない東風-Ⅱだったのです。
41Fのクルーザーヨットのクルーをずっとしていて、この海域は何度も乗っているのですが、これほどは楽に乗せてはもらえませんでした。 特に黒潮の追い波でのラット操船はもう悲惨でした。
この経験からラット仕様にWOODYヨットはしていません。
5時間後には無事串本港へ入港。

衝突事件

串本港で1週間留まったままの静岡へ帰りたいと言っているモーターボートの横に係留しました。 「あんたらヨットはいいな。わしもう1週間ここにおるねん。何時帰れるやら」と、返事に困ってしまいましたが、外洋でのボートとヨットの違いを痛感しました。
次の日に向かった先は周参見漁港で、41Fの艇で何度も寄港していましたので、難無く入港。
次の日は一気に大阪まで帰りたく、最も信頼できる友人に来て貰いました。
彼は私のヨット操船の師匠でもあり良き友人で、足立ヨット造船のインストラクターでもあります。
3人で出航し、家内はいつものごとく直ぐに酔うので、オーナーズバースでごろん。
真夜中、日御碕を航行中、私はコクピットで横になっていました。
ゴン!ゴン!と立て続けに2回の大きな音と衝撃で、体が空中へ浮き上がりました。
「座礁か!」「こんな沖で絶対ない!」艇はランニングで7.2ノットは出ていたようです。
二人で後ろを振り返ると、海中から大きな木が真横に浮かんできました。 葉っぱも木の根も付いたままの流木でした。
「あれを飛び越えたんだ!」直ぐに船内に入り、バラストボルトの付近や、バウ、ビルジを確認するも、全く変化はなく、結局東風-Ⅱを上架したのは翌年の3月でした。
木造艇の強さは凄いと痛感しました。
2004年の夏に台風で損傷を受けたWOODY82のベラもその強さを証明しています。

足立ヨット造船の設立を決意

これ以後も毎週と言っていいぐらい色々な所へ航海をしました。
その度に自分の知る限りのどのヨットにも東風-Ⅱは当てはまらなく、全てが越えていると感じました。
操船の楽さ、乗り心地、機走のスピード、手放しの操船、腰の強さ、湿気のない船内など、全てと言って良いぐらいなのですが、セーリング時の上り角度はレーサー仕様で無いので仕方ないのですが、上り角度を稼ぐには実は簡単なんです。
ジブシートがイン側から引けて、喫水を深くすれば、ヨットは昇ります。
良く「昇り角が何度」と言う会話を聞きますが、レーサーヨットでは大切なのでしょうが、
「ほとんどクルージングしかしない人にとっては、そんな角度は機走力で補ったらいいし、それよりも疲れないヨットの方が遙かに良いのにな」といつも思います。
それより機走力の強い、バックの効くヨットの方が遙かに良いのにと思っています。
当初東風-Ⅱの巡航スピードは銅板(当時ハルガードと言う名称で売られていた)のおかげで、15Psの2GMで巡航7.5ノット、トップ8ノットを越えていました。
ただ1つ不満なのがバックの効き具合でした。
ちょっと横風が吹いていると、着岸のことが直ぐに頭に浮かびます。
WOODYヨットはセールドライブでバックの効きの悪さを完全に克服しています。
これ以外の全てに満足でした。
自作で建造した東風-Ⅱを越えるヨットは本当になく、素人工事の自作であって、その出来はかなり優秀であったようです。
木造のヨットを建造している造船所も何カ所か有りましたが、価格が高すぎたり、木材と言う共通の主材料を使っていても、私の考え方と違っていました。
「だれも作っていないなら自分が造船屋をしよう!」とさっさと辞表を出すつもりでしたが、年金の関係で後1年勤めるのと勤めないのでは全く違ったため、1年間延ばしました。
でもこの1年が丁度勢いだけで行ってしまうのとは違い、色々と考える時間としては良かったようですし、少しでも心がぐらつくようなら諦めようと思っていました。

足立ヨット造船設立

1992年(平成4年)の7月に足立ヨット造船を設立しました。
すでに平成不況と言われ、バブルがはじけた後だったのですが、かえってこの時期の方が良いとも思いました。
景気の良いときだったら何でも売れたでしょうが、それでは私自身の努力は半減するとも思いました。
3年も経てば景気も過去の歴史から言って、良くなってくるだろうとも思いましたが、実際にはさらに10年必要だったようです。
行革行革と叫ばれていますが、行革は内にいる者がやらないかぎり、実際は出来ないでしょうね。
私の市役所時代は正に行革だったと思います。
ヨットの世界も「今あるヨットが完成されたヨットではない!」と言うのが私の基本姿勢で、「ヨットの事を知らない者にはさわらせない!」ことも大切だと思います。
私には長期の外洋航海の経験は有りませんが、大阪の土壌は長距離航海者のオンパレードで、無寄港世界一周や長期世界一周、太平洋横断、小笠原なら10回行ってるよ、という強者まで、いっぱいいるんです。
その人達からの航海の様子、操船、艇のこと、もういっぱい情報が貰えます。
それがWOODYヨットの改良点になっています。
長距離の航海者でも、あくまでそれはその方が乗ったヨットであって、ヨットが変われば操船も乗り心地も、全てが変わるかも知れません。
全てを足立ヨット造船で作っているわけではありません。
餅は餅屋と言うように、専門家に任せる方が良い物に成ることは間違いなく、外部に発注している物も沢山あります。
艤装品業者さんは2件も大阪にありますし、セールはセール屋さん。マストやラダー金物と燃料タンクはプロコさん。 扉やテーブルは東風-Ⅱ以来からおつき合いのある木工所。
金物やドジャーは丁度私と同じ頃に始めたマリンクラフトさん。
電気設備は専門の吉田さん。
造船所としての土壌がいっぱい大阪には有ったと思います。
ヨットそのものの本体は私が自分で作ります。
これだけはだれも作れないのですから。
時々地方へ来ませんかと誘われるのですが、私は大阪の地を離れることは、結局WOODYヨットの質を落とすことになると思っています。
「常に進化するヨット」を目指して建造していくため、全く同じWOODYヨットは有りません。
全てのWOODYヨットを改良する方が良いと判断したときには、メンテナンスの時に行い、完成したWOODYヨットも進化するのです。
全艇に行ったのはエンジン冷却水の別取り入れ口でしょうか。
これも完成艇からの経験からです。
本の知識や、航海者の知識を手本のようにする方が居られますが、本が出たときにはすでに古い知識で、航海者の経験はあくまでその航海だけであって、その時に乗っていたヨットの経験でしかないと思います。